憧れのVanLife33 スパーキーが教えてくれたこと2

COLUMN

2020年06月15日

「同行二人」という言葉がある。

四国巡礼を歩くお遍路と共に、弘法大師がいつも傍にあるという意味だ。この言葉を初めて聞いたのは中学3年生の時である。

当時、大恋愛をした。
相手は中学1年と2年を共にしたクラスメイトで、「3年生になったら、別のクラスになるかもしれないから、春休みにどこかに行こう」と、どちらからともなく提案し、二人で京都に行った。

その日からいきなり友情が愛情に変わった。中学生の恋愛ってそんなもんだ。

その彼女が転校することになった。今なら会いに行けば済むじゃないか、で問題解決だが、その当時は今生の別れに思えた。

男なのに泣いた。泣きじゃくった。泣きわめいた。

そしたら担任の先生が、「同行二人」という言葉を教えてくれた。弘法大師ではないが、いつも愛する女性はこころの中で共にある、ということである。

だが中学3年生のガキンチョにそんな言葉が刺さるわけはない。さらに泣き続けた。

この「同行二人」の意味を改めて感じたのは、それから約25年後、40歳を過ぎたあたりだ。

横浜から河口湖の湖畔に引っ越して間もなく、「河口湖マッスルクラブ」通称「河筋(カワキン」というのを結成した。

心肺機能、並びに全身の筋肉を徹底的に痛めつけるのを楽しもうという同好会である。15人ほどの成人男女が集まり、月に一度、カヤックに乗ったり、MTBで走り回ったり、山を駆け回った。

入会資格はたったひとつ。年に一回は必ずフルマラソンを走るということである。

で、ある時、皆で酒を呑んでいる時に、同年代のメンバーがボクにこう言った。「二日酔いの朝とか、今日は走りたくないなあ・・・なんて思うこと、よくあるんです。でも遠くに富士山が見えたら、あゝ・・・会長(ボクのことだ)は今頃、あの富士山の麓で走っているんだなあ・・・と思うと、今日も頑張らなんきゃ・・・なんて奮い立つんですよねえ」

その会話も聞いていた若年の青年が「あ! 偶然です。ボクも同じように思っていました!」と同調する。

その言葉を聞いて、逆に益々、頑張らなきゃと励まされた。

その当時、三菱のクルマのCMに定期的に出演しており、海外でのロケも多かった。が、どんな都市や山に行っても、毎朝、走ることを欠かすことはなかった。

特にニュージーランドでのロケの時は、カワキン・メンバーのみんなが走っている時間に併せて、夜中の4時から走り始めたこともあった。その時に初めて、中学の時の恩師の言葉を噛みしめることになった。

2011年に祖父になった。孫娘が産まれたのだ。その翌年に富士五湖を72キロ走るレースに出場した。我が娘が孫娘を抱いて、各所で応援してくれた。とても励みになった。

そして2014年に、メキシコの山奥で80キロのトレイルランのレースに出場した。

辺境の地で体力調整もままならず、苦しいレース展開になった。その時も孫娘の顔を思い出しながら、次の峠を超えたら彼女が待っているかもしれない、次の橋を渡った角に、そこにいるかもしれない、と夢想しながら、なんとかレースを完走した。

先日、日本百名山を記した深田久弥、終焉の山「茅ヶ岳」に登った。深田久弥は日本の登山史に大きな足跡を遺したが、僅か標高1700メートルほどの山の頂上直下で、その頂きに立つことが叶わず、脳溢血で急逝した。

1971年に亡くなったのだが、その場所には記念碑が建てられ、今でも花を手向ける人が絶えない。登山道入口には記念の公園もあり、その山のスケールに拘らず、多くの登山者がここを訪れる。

スパーキーが旅立ってそろそろ一ヶ月近くになる。

最初は哀しみに暮れたが、最近になってようやく穏やかに受け入れることができるようになった。

だが今でも、夜中にトイレに行った時に、その傍に寝そべっているのではないか、といつも思ってしまうし、外出から戻った時に、扉を開ければそこで待っているのではないか、と考えてしまう。

が、それは決して苦痛ではない。

実際にスパーキーはいつも共にいるのだ。

山を歩けば、活き活きとそのトレイルの前を駆け回り、夕食時間には柱の陰から不服そうにこっちを見上げ、Vanのサイドドアの横で、敷物のように長々と寝そべっているのである。

身体は滅びても、その魂は決して滅びることはない。

肉体の別れは必ずやってくるのだ。だが記憶は決して失くなってしまうことはない。人々の記憶の中に、己の夥しい思い出の中に、いつもスパーキーの元気な姿が、鮮やかに躍動しているのである。