カヤックのハッチと木製フレーム
ちょっと感動が大きくて、何から書けばいいのか迷ってしまうが、解りやすく時系列を追ってみよう。
7年ほど前からカヤックのレンタルを始めた。今では45艇ほどの船を所有しているが、その当時、我々が所有していたカヤックの数は、シットオンの「マリブ2」というカヤックが4艇。「オールドタウン」のカナディアンが3艇。それにシットオンのソロ艇が2艇だけだった。
これらのカヤックは、1995年から続いていた日本工学院八王子専門学校のアウトドア実習で主に使っていたが、「キャンプビレッジ・ノーム」のオペレートをしている時に、一般のお客さんからのレンタルの要望が多く、主に「マリブ2」をレンタルとして貸し始めた。
彼はちょうどその頃に、大勢の仲間たちとキャンプにやってきて、「マリブ2」を2艇借りて湖に漕ぎ出して行った。
数時間後、申し訳なさそうに戻って来て言った。
「借りていたカヤックがふざけていたらひっくり返ってしまって・・・」
「え! 大丈夫?」 一瞬、鼓動が早くなるのを感じる。
「ええ、別にみんななんともないんですが・・・カヤックのハッチの蓋が沈んでしまって、潜って探してみたんですが・・・結局、見つからなくて・・・」
とりあえず人的な被害がなくて良かった。しかしほっとした瞬間、ちょっとした怒りがこみ上げてきた。
「だから言っただろ。ふざけちゃ駄目だって! まあ被害がハッチの蓋だけで良かったけど」
彼がボクを上目使いで見ながら言った。
「いや・・・ボクの携帯も一緒に沈んだんです」
オーシャンカヤック社の「マリブ2」というカヤックは、カリフォルニア生まれのカヤックである。チンしてしまっても、再乗艇が可能な安全なカヤックで、当初はダイバーたちが潜る為に開発されたと聞いている。最後部にタンクが積める形状になっており、ボク自身も、この船とダイビング用具一式を車に積み込み、伊豆半島にダイビングに行ったこともある。
で、前後のシートの前に小さなハッチが付いており、その中に小物が収容できるようになっている。
カヤックを借りた彼はそのハッチの存在に気付き、そこに自分の携帯電話を入れたのである。
そこに2つの偶然が重なった。ふざけなければチンしないはずの船がひっくり返った。そして閉めたはずのハッチの蓋がきちんと閉まっていなかったのである。
しかしいずれにしても、我々の被害がハッチの蓋だけで良かった。その蓋の再購入には8000円を要したが(レンタル料金は5000円である。トホホ・・・)、彼の携帯電話の被害の方が大きかったかもしれない。
彼はその後も頻繁にノームにキャンプにやって来た。来るたびに「えー・・・と覚えていますか? カヤックのハッチを失くした・・・」と照れ笑いを浮かべながら挨拶に現れた。
2013年から「キャンプビレッジ・ノーム」のオペレートを始め、3年後の2015年に我々は退くことになり、ツアーやレンタルは続けたが、ノームにずっと駐在することはなく、彼とは会うことがなくなった。
先週末、夕方にいつものようにカヤックのレンタルの受付準備をしていたら、彼が現れた。そしていつものように「覚えていますか? カヤックのハッチを失くした・・・」と言いながら近づいて来た。
ボクは笑顔で応えた。
「もちろん覚えているさ! もうあれから7年か8年は経つよな・・・いくつになったの?」
「今、32です。あの頃は24くらいだったかな・・・今回もそうですが、子どもも生まれて、家族を連れてキャンプに来てます」
彼の顔に父親らしい優しい笑顔が拡がる。
嬉しいことじゃないか。若い頃から仲間と遊びに来てくれ、結婚して子どもができて、そして今では家族を伴ってキャンプに来てくれる。
「あの実は今、家具職人をやっていて、2年前に独立したんです。それで・・・」と言いながら、彼は片手に下げていた紙袋を差し出した。
「これ、ハッチのお詫びです」
その紙袋を受け取り、中身を確かめると、重厚な木材を使ったフレームに、5Lakes&MTのロゴが額装されていた。
「今年、3周年ですよね? お店」
思わず熱いモノがこみ上げる。
彼とはそんな話など、まったくしたことなかったし、ボクが5Lakes&MTブランドを立ち上げ、河口湖に店を出していることを、彼が知っていたことも驚きだった。
手にした額装をじっくりと眺める。細かく木材が組み込まれており、釘やビスなどの金具がほとんど見当たらない。額装の下部に、磨き込まれた節穴がアクセントになっている。
それに気づいたように彼が言った。
「節穴のある材料を使うのが、ボクの作品の特徴なんです。普通は嫌がるのですが、せっかくの木材なので無駄にしたくないと思って・・・素材はすべて樫の木です。」
フレームと彼を交互に見ながらボクは尋ねた。
「どこかに工房があるの?」
「ええ、埼玉の自宅に工房とアトリエがあります。すべて受注生産で、一人でコツコツやっています!」と誇らしげに胸を張った。
もしも、もしもあの時、普通にレンタルしたカヤックが無事に戻って来て、ハッチも携帯電話も失くさなければ、こんな素晴らしいサプライズが訪れていただろうか? それとも、そんな小さなアクシデントにも関わらず、なんらかの繋がりがあったのだろうか?
今ではそれはまったく判らない。
ただ一つだけ言えるとしたら、世代を超えて、一つの物事をずっと胸の奥底に大切に仕舞って、いつの日かその思いを伝えようとする素晴らしい若者がいるということである。
そして湖に沈んで行った黒い小さなハッチの蓋は、黄金色に輝くエピソードとして、今、自分の心の中に蘇ったのである。